名だたる武将たちに思いを馳せて鎌倉・戦国時代にタイムスリップ

東松山・比企地域には、テレビドラマでも話題となった鎌倉殿に仕えた武士たちのゆかりの地があちこちに。
戦国時代の関東動乱の舞台でもあり、「お城の博物館」なんて呼ばれているんですよ。
鎌倉・戦国時代を懸命に生きた武士たちの足跡を辿ってみましょう。

鎌倉殿 源頼朝

初代鎌倉殿。源義朝の三男で乳母は比企遠宗の妻、比企局。
平治の乱で源氏が敗れて流刑になった頼朝を物心両面で支援したのが比企氏。
もし、比企一族が居なければ鎌倉幕府の成立は無かったと言っても過言ではありません。


東松山・比企地域にゆかりの比企氏

比企尼(ひきのあま)
頼朝の乳母。頼朝が伊豆に流されると京都から武蔵国比企郡に移り、夫遠宗亡き後は尼となり頼朝を20年もの間支援した。

比企能員(ひきよしかず)
比企家の猶子(比企の尼の妹の子)で比企家の当主。鎌倉幕府の有力御家人。

若狭局(わかさのつぼね)
比企能員の娘で二代将軍頼家の妻。頼家の死後、武蔵国大谷村へ逃げ、頼家の菩提を弔ったと云われる。


大人気の武蔵武士と言えば! 畠山重忠(はたけやましげただ)

鎌倉幕府の有力御家人。武蔵国男衾郡(現深谷市畠山)に生まれた重忠公は武蔵武士の典型的人物であり、武将の鑑として尊敬されてきた。
嵐山町にある菅谷館跡(すがややかたあと)は重忠の構え住んだ館であるといわれている。


武蔵武士ゆかりの地

都幾山慈光寺(ときさんじこうじ)

1189年に源頼朝が奥州藤原泰衝の討伐のため愛染明王像を贈り、戦勝祈願した寺といわれています。吾妻鏡には頼朝が治承3年(1179年)3月2日、安達盛長を御使として御署名入りの洪鐘を鋳造して伊豆国より寄進したと記されています。
国宝「法華経一品経」など貴重な文化財の宝庫です。
坂東9番札所。
(ときがわ町 TEL0493-67-0040)

岩殿観音正法寺(いわどのかんのんしょうぼうじ)

鎌倉時代に比企能員が中興した寺で北条政子の守り本尊として知られています。
境内の大イチョウは樹齢700年と言われており、12月初旬の黄葉は見事でたくさんの参拝者で賑わいます。
参道の途中には判官塚(判官神社)があり、比企能員の追福のために築いたと伝わっています。
坂東10番札所。
(東松山市  TEL 0493-34-4156)

息障院(そくしょういん)・岩殿山安楽寺(いわどのさんあんらくじ)

吉見町にある源頼朝の弟、源範頼館跡。平治の乱後、 範頼は岩殿山息障院・安楽寺に逃げ比企氏の庇護によって成長しました。
鎌倉幕府成立後も範頼は吉見を領地とし、息障院の場所に居住したと云われています。息障院の周囲には堀の跡も残り、この辺は、御所と呼ばれる場所です。
吉見観音として知られる安楽寺は坂東11番札所。
(吉見町 TEL 息障院0493-54-0028・安楽寺0493-54-2898)

菅谷館跡(すがやかんあと)・埼玉県立嵐山史跡の博物館

嵐山町にある畠山重忠公が居住していたといわれる館跡。二ノ郭の土塁上には畠山重忠公像が建っています。
菅谷館跡の中にある嵐山史跡の博物館は中世(平安時代末期~戦国時代の終わり)の城と武士の専門博物館。ガイドブック、御城印、博物館オリジナルグッズなどを販売しています。
(嵐山町  TEL 0493-62-5896)

三門館跡(みかどやかたあと)

三門館跡は和泉にある泉福寺(せんぷくじ)より東に約 200mの位置にあります。この館跡は発掘調査などが行われていないため詳細はわかりませんが、源頼朝の父である義朝などに仕えた比企遠宗の館ではないかとする説があります。
遠宗の館とする上記の説によれば、比企尼がこの三門館から頼朝に米などを送り支援していたのではないかと考えられています。
(滑川町)

扇谷山宗悟寺(せんこくさんそうごじ)

宗悟寺には、若狭局が持ち帰ったと伝わる夫頼家公の位牌や、夫を失った苦しみから逃れるために祀った蛇苦止(じゃくし)観音等が伝えられてます。(位牌、蛇苦止観音は一般公開していません)
境内には地元の有志による比企一族顕彰碑が設置されています。
(東松山市)

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